世界のわかりづらさとポートレート

近頃写真は現代アートとの結びつきが深まり、どんどんわかりづらくなってきている。

2007年くらいからだろうか、やけに写真作品にポートレートが目立つようになってきた。

ちょうどそのくらいにアルルのフォトフェスティバルに行ったり、パリのビエンナーレに呼ばれたり、パリフォトに冬青で参加したりと海外の作品を見ることが多くなっていたのでずっと気になっていた。

ポートレートといっても無背景の肖像画タイプではなく、ある土地の前にぶっきらぼうに人物がただ突っ立ている写真だ。表情に喜怒哀楽はなく、感情を推し量る手がかりがない。喜んでいるのか悲しんでいるのか、その状況を受け入れているのか抵抗しようとしているのかがまったく分からない。

付属のテキストを読んでようやく状況が理解できる。「見れば分かる」という写真の神話は完全に否定されている。「分かりづらさ」が全面に押し出されていた。なぜこういった写真が多くなっているのか当時はさっぱり理解できなかった。

ひとつの例をあげよう。Jonathan Torgovinikの「ルワンダジェノサイドに生まれて」という作品がある。アフリカの美しい母子のポートレートだ。

1994年、中央アフリカの小国ルワンダで、多数を占めるフツ族による少数派のツチ族への無差別の虐殺がおこった。それまで平和に共存していた彼らが突然殺し合いになったのだ。そしてそのときに性的暴行にあった被害者女性が出産した多くの子供はエイズに感染していることが判明する。そして彼女の家族を殺した男がその子の父親なのだ。しかし無表情な母子のポートレートからは彼女たちが何を訴えているかわからない。状況を受け入れているのか、戸惑っているのか。

ところが写真に付けられているキャプションを読むと愕然とする。「私はこの子を愛していない」「子供が癇癪を起こすたびに父親の血だと思えてならない」など母親の本音とも言える言葉が並び、写真を見ていくにつれ美しいポートレートとはかけ離れたコメントに僕はどんどん混乱していく。

そばに寄り添っているのは紛れもない自分の子供なわけで、コメント通りには到底受け取れない。だって赤ちゃんの頃からずっと一緒なのだ。しかし、、、僕は解決しない答えを今でもずっと考え続けている。

評論家の竹内万里子氏は「この作品は見た後にスッキリとわかった気に
なれるものではない。記号のように現実を単純化して切り取りとると
見る人を理解した気にさせる『わかりやすい』写真への抗い、写真を見てもわからない現実の複雑さに向きあう必要がある」と解説している。

さて現代アートは現在を目に見える形にするものだとすると。

2001年のアメリカ同時テロの時は「ならずものが、豊かなアメリカをねたんでの逆恨みのような犯行」と善と悪がはっきりしている報道だった。悪の枢軸という言葉が象徴的だ。ネットがまだ普及する前で、テレビの報道を信じきっていたところがあった。あの頃は物事の流れや考え方がある一定方向に流れていたように思える。

ところが昨年2015年のパリ同時多発テロの時は、いったんはフランスが一方的な被害者で、という流れだったのがすぐにネットから「フランスがシリアにしている空爆はどうなんだ」という声があがった。だからといって許されることではないが、どうやら善悪の二元論では世界は語れないということに多くの人が気がついた事件だった。善と悪に明確な線を引くことはもはや不可能だ。

世界はわかりづらくなっている。そしてそのわかりづらさを目に見える形にしたのが、あのポートレートブームだったのだ。ポートレートは世界が抱えている矛盾を提示するのにとても良い方法なのだ。

わかりづらさは我々に考えることを要求する。現代アートは今を考える装置として機能している。