AKBとタイポロジー

先日亡くなったベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻といえば、給水塔や工場など戦前のドイツ構成主義時代の名残りを「大型カメラ、無影、無背景、同一距離、同サイズ、モノクロ」といった手法で撮影。それをグリッド上の額装で提示し「タイポロジー」を完成させたアーティストだ。写真をやるものにとって必ず知っておかなければならない最重要人物のひとり。作品ひとつひとつの差異は極めてわずかで、見るものは注意深くそれを見ていくことになる。

その制作物を「無名の彫刻」と題して1990年ヴェネツィアビエンナーレで最高賞を受賞する。現代アートと写真が結びついた瞬間だ。

以後デュッセルドルフアートアカデミーで教鞭をとっていたベッヒャー夫妻は、その考えを教え子に伝え2000年代の写真は「タイポロジー」の影響無しで語ることはできなくなった。。史上最高額の4億円で落札されたグルスキーやトーマス・ルフ、トーマス・シュトゥルートなど「ベッヒャーシューレ(ベッヒャーの教え子」達の活躍は凄まじいものがある。

何の知識や社会的背景もなくベッヒャーの写真を見て「素晴らしい!」と感じる人はほとんどいないと言っていいだろう。僕も最初は全然わからなかった。実際オリジナルプリントを見ても大して上手くないのだ。エイトバイテン(8x10インチ)のカメラを使っている割には結構雑(笑)

ところが、その雑さにはわけがあるのだ。一枚のクオリティを極限まで高めたものは、その美しさばかりに注目が集まり、他のことを想像する余地を奪ってしまう。また突出した一枚は全体のバランスを崩すことになる。現代アートでは、美しさは慎重に扱われなければならない、盲目的な美の追求になってはならないとされている。

フィニッシュのクオリティを競うのではなく、どういったアプローチ(よく文脈とかいったりする)なのかということが大事ということだ。

現代アートが現在を可視化する装置とするのなら、現代アートの理解は即現在の理解ということにつながるわけだ。実業界に現代アートコレクターが多いのは、値上がりを期待しての資産生成というよりも、現代アートの理解が現在の認識に役に立つと知ってのことからだと言われている。

ベッヒャーのタイポロジーはアートシーンを変えるほどの重要性を持っていたことは間違いない。そしてタイポロジーが生まれて25年、アートがそれを消費するようになって15年。そろそろ現実社会がタイポロジーを認識し、消費してもいい頃合いだ。事実、2Bのグループ展にもタイポロジーを利用した作品が出てくる時代だ。すでに最終消費段階といってもいい。

では現実にビジネスとしてそれを応用した事例はなにかあるのだろうか?

色々考えているうちに「AKBはタイポロジー」だという結論に達した。突出才能に頼ることなく、身長、体重、歌の上手さ、ダンスの上手さをある一定の枠に収め、コスチュームを同じにして、ステージ上にグリッド上に配し、わずかな差だけを提供する。

センターが交代しても機能は変わらない。AKBから派生した他のグループへのシャッフルも可能。興味のない人にとってはメンバーの特徴を把握するのは困難である。

しかし興味のある人にとっては、そのわずかと言っていい差異がとても重要であり「押し」につながる。

まさにタイポロジー。ベッヒャーと秋元康は同じことをやっていたのだ。