モヤモヤ

午前11時、ギャラリーオープンとともに会場入り。外は小雨、まだ暖房が入っていなくて寒い。いつものように作品に背を向け、窓に面して座る。まずはお茶を一杯。

こんな日に誰か来てくれるんだろうか?

今回の展示は「モヤモヤ」したものと先日書いた。最近の世界的な写真の傾向としては、明確な方向性を持ったものが多い。それを裏打ちするように、作品には必ず言葉(ステートメント)がつけられている。言葉は情報を作品に「足す」意味合いに使われるから、散文的ではなく、具体性が強く求められる。

写真=アート作品の場合、ドメスティックに流通消費されるよりも、ネットが発達した現在では世界的な広がりを前提にしているところがある。作品だけ見ても環境によって捉え方が違うだろうから、言葉を使ってスッキリさせようということだ。反対に分かりやすい、一見理解しやすそうな写真には分かりづらさを与え、わざと混乱させる場合もある。

20年前、日本では写真に言葉をつける行為はナンセンスであり「写真で語れ、文章にできないからこそ写真の意味合いがあるのだ」と言われていた。

これはドメスティックの消費のみだから生まれたのではないだろうか?

習慣や宗教が違えば物事の受け止め方がまるで違ってくる。僕はそのことを「ノーモアノスタルジー」事件(事件というのも大げさだが)で強く感じた。

郷愁を生理的に否定する文化が存在していたのだ。これは僕にとって衝撃的なことだった。

養老孟司は「バカの壁」という著書で「わかりあえない存在」というものがあると書いている。

人間は根底では繋がっていて、相互理解ができるという理想の否定だ。

ドメスティックでは前提が一緒だから言葉を使わなくとも「わかるでしょ?うん、わかるわかる」となるが、その前提がないところでは「分かってもらう」ための努力が必要になる。

ゆえに作品につける言葉は明快で、どの言語にも翻訳可能でなければならい。と、どのキュレーターも口を酸っぱくして語る。

そのため制作過程において言葉が先行するほうがやりやすくなってきた。そのため近頃では作品制作のことを「プロジェクト」と呼んでいる人が多い。

先に言葉があることで客観性が生まれ、個人的な感情や自意識を捨てて、どれだけフラットに対象を捉えることができるかという方法論を模索しているように見える。

なんてことは百も承知で今回はモヤモヤしたものを出している。この時代においてモヤモヤしたものを出せるのは、もはや特権だと思っている。

レンタルギャラリーでお金をかけて展示するものではないし、メーカー系のギャラリーでは審査に通りっこない。コマーシャルギャラリーならではなのだ。

ギャラリー冬青での展示は6回目になる。来年1月の展示もすでに決まっている。作品ができたからやるのではなく、会期に合わせて作品作りをするのだ。毎回毎回スッキリしたものができるわけがない。ありがたいことにギャラリー側も「良い時も悪い時もひっくるめて展示をしてください」と言ってくれている。

昨年の「prana」はステートメントから構成からスッキリしたものを作ろうと意識していた。

その反動か、もうスッキリした作品作りに魅力を感じなくなってきた。

モヤモヤをスッキリさせるというよりモヤモヤのまま完成させたい。今年の方向性はそんな感じだ。