イノシシとワタリガニ。

前回幸せの在り方と普通に生きることの難しさということを書いたらいくつかのメールをもらった。

このブログにはコメント欄をつけていないし、SNSとも連動させていないので、書きっぱなしの状態。だからわざわざメールが入るというのは珍しい。

そのなかで

私の母も自身、そして周りの人達のいろんな生き様を見てきて、「普通に生きていく」ことが一番といつも言っていました。

「ただ普通に」、ではなく、「敢えて普通に」と半ば強く言い聞かせるぐらい能動的な姿勢ですら感じる程でした。



祖母もよく言っていた「質素に暮らせ、普通が一番」と。

生きているうちに気がつくんだろうな、普通の暮らしというのは努力して得るものだということを。自分を律し、人に依存せず、妬まず、羨まず、執着やこだわりを捨てて初めて普通の暮らしが手に入る。

これってまるっきり仏教の教えになるから、それが日本人のベースになっていたのかもしれない。

挑戦を続けていけば常に過程の状況にあるわけだからずっと幸福感を得られることになる。達成したらまた次の目標を立て挑戦を死ぬまで続けていく。どこか西洋的な感じがする。

一見とても理想的に思えるが、多くの人に当てはめられることではないように思う。昔の日本人は、それならいっそそこから離れ、普通の暮らしに「平穏」をもとめようとしたたんじゃないか。

平穏に一番邪魔なのが妬みと執着とこだわり。若い頃競争に追われた多くの文人、芸術家の最後が質素になっている。


ああ、歳を取ったな。会社を辞めフリーになって30年、我が我がで生きてきた。ある意味挑戦を重ね続けてきたことになる。ずっと新人だと思い続けてきた。

ひとりの友人の死が、これからの自分の生き方を変えてしまうかもしれない。でも毛利さんはこんな僕を見て、きっと腹を抱えて笑っているだろうな。

「渡部くんは、いつも考えすぎ」ってね。