屋久島のお土産「鯖の薫製」を使ったパスタ。これはいけます。

屋久島から戻った。毎日写真祭の準備と撮影で忙しかったが楽しかった。日本側の招待作家も決まり、企業や自治体も協力してくれることになっていた。

僕はこれまでの個展やグループ展、海外フェスティバルの経験から展示方法のアドバイスをしただけ。あとは屋久島の二人が寝る間も惜しんでの奮闘だった。東京にいてはわからない運営の大変さを肌で感じた。残り1か月、できるだけのことは手伝う、その覚悟のようなものができた。



昨日写真家の中平卓馬さんが亡くなったという書き込みがSNSに流れてきた。ニュースにはなっていなくて本当だろうかと思っていたが、今日になって肺炎で亡くなったことがわかった。享年77歳。

僕が14歳の時に初めて買った写真雑誌が「アサヒカメラ」だった。写真の面白さにはまり、毎月の発売が楽しみだった。森山大道高梨豊篠山紀信が毎号グラビアを飾り、もちろん中平卓馬はかかせない存在だった。

篠山紀信x中平卓馬「決闘写真論」が連載されていて、意味はわからないが、これを読まなくてはいけないということだけは伝わってきた。

ワークショップの初めてのグループ展に中平さんが突然来てくれた。その顛末は「旅するカメラ2」に書いたが、あの時の興奮はいまでも覚えている。

ペンタプリズムが凹んだキヤノンF-1に100ミリマクロをつけていて、フィルムは感度100のポジ。シャッタースピードは1/125秒、絞りは11半になっていて、その設定でしか撮らないといっていた。

その設定では晴れた日で、光がたっぷりあるところ以外は撮れない。中平さんの設定は「光優先」モードになっていた。

撮るものはすべて縦位置で対象は寝ている人やネコ、植物など限定されている。それを2枚一組にするのが流儀。純粋写真とも言えるような写真の物語性を徹底的に排除した、具象を使った抽象表現になっていた。そこにセンチメンタルもノスタルジーもない。抑揚のない写真は見るものに予定調和という安心感を与えない。中平さんの「なぜ植物図鑑か」という評論集は、タイトルからしてそのまま現在の現代芸術のあり方を表している。

その数年後も、再度ワークショップのグループ展に来てくれた。2時間以上、山梨まで夜通し自転車を走らせた話や沖縄に行ったときのこと、大きい蛇の話を身振り手振りで話してくれた。

中平さんの存在は僕にとって、もはや神様か仙人かというレベルだった。ずっとお元気だった印象だったので訃報に驚いた。

ご冥福をお祈りします。