ワークショップ51期の募集は終了しました。ありがとうございました。

盆の前。

もう行かないと言っておいて、すでに今年二度目の米沢。

フランスに住むコンテンポラリーダンサーのYodaさんが山形で踊るというので見に行こうと思ったのだ。

Yodaさんとは8年前に、パリのカフェで友人の友人の彼女の友人というつながりで会った。異国の地でお互い米沢出身ということが分かり驚いた。

以来パリの自宅に伺ったり、山形でのパフォーマンスを見に行ったり、僕の写真展を見に来てもらったりしている。

コンテンポラリーダンスとは、ある形式をとらない自由な動きをするもの。日本発の「舞踏」もコンテンポラリーダンスと言える。

舞踏も含めてコンテンポラリーダンスは何度か見てきたが、今回初めて面白がるツボが分かった気がした。

Yodaさんには公演とは別に写真を撮らせて欲しいとお願いしていた。早朝5時に米沢の河原に降りて踊ってもらった。

音楽は一切無し。川の流れと、時折鳥の鳴き声が聞こえる。

最初は様子を見るためにファインダーが見やすいペンタックス67Ⅱを構えた。Yodaさんの動きには規則性がないからピントが追いきれない。2本撮ったところでもどかしさを感じローライフレックスに切り替えた。

僕のローライはファインダーが異常に暗くとても見ずらい。しかもローライのファインダーは左右反対に見えて動きを追うには合わないとされている。

ところが見えずらいからこそ集中できる。徐々にYodaさんの予測不能な動きとシンクロする瞬間が出てきた。

最後は川の流れの中での全身ずぶ濡れでのパフォーマンスだった。

1時間のセッションでローライで撮った本数は5本。わずか60枚にすぎない。でも十分な手応えだった。

Yodaさん本人すら予測不能の筋肉の動きが体を支配するとき、目が離せなくなった。

それに気がついてから思ったのは、コンテンポラリーダンスでは音楽のメロディーやリズムに動きを合わせるのではなく、そこから離れようとしている。無音や、音楽ではなくノイズがバックに流れるのはそのせいだろう。歌詞の世界に引っ張られるのはつまらないし、感情のこもった動きは甘ったるく感じてしまうのではないか。無感情であるということ無表情につながる。

そういえば舞踏で使われる全身の「白塗り」は、感情を排除するための装置ではないだろうか。

「感情を排除した客観性」というのは、現代アートにおいてよく出てくるキーワードだ。