2015年 アルルで僕が感じたこと。写真と影の関係性。

アルルのフェスティバルでは20以上の公式な展示と、大小様々な個人で開催されている写真展を見ることができる。

教会や遺跡跡、雑貨屋やホテル、飲食店にいたるまで目に触れる全ての場所が展示会場となる。

古典名作の類から、今年のアワードの受賞展まで大量の写真を見ることができた。1週間いたにもかかわらず、公式展示すら全てを見きれなかった。

最近の写真の傾向としては相変わらずポートレートが強い。しかしそのポートレートも背景にある社会性をあぶり出すものというより、個人的な目線のものが増えているような気がする。かといってプライベート色はそんなに強くない。無地背景のストレートなものも多い。

他にはタイポロジーを使ったスティルライフ及び建築物。要は撮影対象物が大きいか小さいかの話で手法は変わらない。

ランドスケープは少なかった。文化人類学に基づく写真や、自分が撮らず、蚤の市などで売っている家族写真を集めて構成したファウンディングフォトが面白かった。

さて、近年の写真の表面上の傾向として「影」(ドロップシャドウではなく、陰影)がないものが多い。フラットな光を使い平面的な構成になっている。実は以前から欧米の写真を見ていて引っかかっていたのがこの無影の写真だ。

日本の写真には影が多い。というか「陰翳礼讃」のお国柄だ。障子越しの柔らかいグラデーションこそが美しさの原点的なところがある。モノクロの真髄は「光と影 光あるところに影あり」と教えられてきたものだ。

ところが欧米ではモノクロ写真においても近年は影が少ない。というか嫌っているに近いものがある。あくまでフラットに陰影はつけず。カラーの場合もっと顕著だ。

日本の写真はカラーでも影が目立つ。ではなぜ彼らはなぜそんなに「影」を嫌うのか?どうやらその答えのひとつにセンチメンタルとノスタルジアがあるようだ。

あるレビュワーが日本人女性のカラープリントを見て「影はダメだ、センチメンタルになってしまうだろう」と言っていたそうだ。この言葉が引っかかった。

2年前レビューサンタフェでの「ノーモアノスタルジー」(顛末は2013年6月の日記にあります)以来ずっと写真とノスタルジアの関係について考えてきた。

日本では表現のひとつであるノスタルジアを、欧米では嫌う人が多いということはわかった。僕はモノクロだからノスタルジアを感じるのか、ノスタルジアを消すにはカラーしかないのかと思っていた。

しかし、もしかしたらモノクロがノスタルジアなのではなくて、「影」がそう感じるさせているんじゃないのか?影をなくせばモノクロでも通じる?

そう考えてみると見事なまでに杉本博司のモノクロ写真に影はない。海外での評価が高い鬼海弘雄の「PERSONA」にも影はない。金村修にもない。カラーではホンマタカシ鈴木理策にも影はない。

パリに戻ってからオルセー美術館に行ってみた。ここは1850年から1920年くらいの近代美術発祥の頃の作品を多く集めている。

歴史画、宗教画、神話の世界こそがモチーフだった1850年以前は、いわば想像で絵を書いていた。その頃はドラマチックで陰影にあふれていて、何が行われているか一目でわかる作品ばかりだ。

それが時代が王政の廃止、ナポレオン戦争、疫病などで社会不安が増すと美術の世界が大きく動き出す。

そんなときに西洋絵画は日本の浮世絵に多大な影響を受ける。ゴッホとかゴーギャンの時代だ。

浮世絵の特徴といえば、そう「影がない」!

以来西洋画から影が消える。もちろん線で引いたようにとは言えないが、歴史画、宗教画がメインストリームでなくなると、もう陰翳を使った絵はどこにも見当たらなくなるのだ。

影の描写は古臭い手法と映り、絵画は具象から抽象へまっしぐらに進む。抽象画に影は必要ない。

サンタフェ以来、写真と現代芸術の結びつきについて調べていくうちに、近頃近代美術が現在の写真と大きく結びついていることを実感した。腰痛をおしてオルセー美術館に行ったのはこの目で確かめたかったからだ。そしてそれは自分の中で一本に結びついた感じがある。

というか、こんなこと現代芸術をやっている人からしたら「そんなことも知らなかったの?」と驚かれるかもしれないけどね。

写真は写真だけでの成立はもはや困難な時代になってきたと思う。これから世の中に出てくる写真家は、現代芸術を勉強した人から出てくるようになるかもしれない。