写真におけるステートメントの役割

ステートメント講座の反響がよくて、人数が集まっている。

他のところでもステートメント講座は散発的に行われてはいるが、横内さんの講座の最大の強みは英語化にある。どの国の人にも理解してもらえるのは英語しかない。ステートメントは英語になっていないと役にたたない。

ステートメントは作品を作る際の設計図だと考えると分かりやすい。良い設計図から良い作品が生まれると欧米の人は考えている。だからステートメントのない作品はありえないのだ。設計図がなくてどうやって家を建てるんだということだ。

ヨーロッパは分業化が古くから発達しているから作業を円滑に進めるためにもアイディアを正しく伝えるための設計図が必須だったのだろう。

8年前くらいに欧米の写真関係者と初めて話をして面食らったのが「どうしてあなたはステートメント無しで作品が撮れるのか」という質問だった。

写真を撮ることが日常的なことだと思っていたから「常に興味のあるものを撮っている。それをまとめたものを作品と呼んでいる」としか答えられなかった。

すると不思議そうな異星人でも見るかのような顔をされてしまった。

それに対する反発もあって「ステートメント無しで写真を撮っちゃいけないのか」と思っていた頃もあった。当時日本人の写真家でステートメントから作品作りをする人は極少数で、大半は「個人の感情」をまとめたものだった。ところが日本以外では感情的な写真は好まれず、論理的な裏付けがあるものを好む傾向にある。

感情は風土や宗教が影響することが多い。狭い中でなら通じ合える感情的な事柄も、言語も環境も違う人々が理解するのは難しい。桜ひとつとっても日本人が抱いているイメージと他の国の人はまるで違う。

満開の桜の写真を見たとき、我々はそこに儚さを連想するし、作者はそこに意図を置く場合が多い。しかし桜を知らない国の人が見たなら「派手でゴージャス」という印象しか受けないだろう。

ステートメントは設計図だと言ったが、もうひとつ大きな役割があると思う。それは「情報を加える手段」ということだ。

作品にまつわるバックボーンや成り立ちを説明することで面白がるポイントを増やしていく。桜の写真なら日本の風土や季節のあり方、農耕文化との関わりあいを説明していけばいい。そこに個人的な感情論は必要としない。できるだけ平易に、どの国の人にもわかりやすく、論理性が求められる。

その場合には当然英語を使うことになる。

香港ブックフェアの時、黙って店番していた時は一冊も売れなかった。誰も僕のことを知らないから、写真集を手にとって興味深そうにみていても最後はスッと棚に戻して去ってしまう。

このままでは持ってきたものをそのまま持って帰るはめになる。試しに1分以上僕の写真集を手に取っている人の横にいって(対面より横のほうが説得力がある)写真集の説明をしてみた。多くは後書きに書いてあることだから、すでに英語化なっている。それを話してみた。

他にもこの出版社はモノクロ写真の印刷が凄いとか、日本の気候風土や、宗教は仏教と神道ミックスしているとか、写真集にまつわる色々な情報を話してみた。

すると徐々に盛り上がり、その人は「da.gasita」と「prana」の両方を買ってくれた。その後も説明行為は功を奏し、めでたく完売となった。

おそらく何も説明しなければ一冊も売れなかっただろう。「見る人の自由です」に頼るのではなく、積極的な説明行為が必要な場合がある。その時のためにステートメントを英語で用意するのだ。

ステートメントは作品制作時の設計図であり、加えて作品を発表した場合には見る側に意図や背景などの「論理的」な情報を加える役割を持っていると僕は考えている。