夏は好きだが今年はなんかだるい。食欲はあるのにやる気がでないから結果的に太った。
就活中の娘はようやくひと段落して、いくつかもらった内定からひとつに決めたようだ。はたから見れば大変そうな仕事だが本人は初志貫徹、希望の職種なのだから頑張れるだろう。春から社会人か。
自分が社会に出たのは1984年だから今年で30年目。あらためて30年というと驚くな。写真の学校を出ても一般の企業にはまったく縁がなかった。学内に張り出された求人表がほんのわずかで途方にくれた覚えがある。
当時の花形職種はなんといっても広告カメラマンで、成績のいい順に大手の広告制作会社に入社していった。糸井重里をはじめとするコピーライターという職業が注目され「1行書いて100万円」と言われていたまさに広告の時代だ。広告が社会を変えることができると信じられていた。作家林真理子も日大芸術学部卒業のコピーライターだったのだ。
最大手の新聞社の内定を蹴って広告制作会社を選んだ同級生さえいたくらいだ。
広告カメラマンというのはスタジオワークが主になる。企業に入社しても修行に近いスタジオアシスタントを3年間、そこからアシスタントフォトグラファーになり小さな仕事をこなし、5年目くらいでメインフォトグラファーになるのが一般的だった。
企業のカメラマンというのはかなり狭き門だから、そこに入れなければ貸しスタジオで働き2,3年の経験を積んでフリーのカメラマンのアシスタントを3年から5年ほどやったのちにフリーカメラマンになるのがひとつのルートのようなものだった。
NHKのBSを見ていたら、まさに1981年に放送された糸井重里が司会の「YOU」という番組で「明日を目指すカメラマンの卵」というのを再放送していた。30年前の糸井さんはまだ若者だ。
篠山紀信がゲストで、多くのカメラマン志望の若者が集まって番組は進む。過酷なスタジオマンの仕事ぶりが映像で流れ、夢と現実のギャップが浮き彫りになる。怒鳴られても殴られても、そこを乗り越えないと明日はないと彼らは信じている。頑張ればなんとかなると思えたのだから、いい時代だったんだろう。
しばらく見ていたら何か番組進行に見覚えがある。そうだ当時オンタイムで見ていたのだ。この番組には同級生も数人出ていた。大学3年生の頃だ。そろそろ進路を決めなくてはいけない時期で、真剣に見ていたのを思い出した。
学生時代にスタジオマンとフリーカメラマンのアシスタントを経験したが、どちらもすぐに逃げ出した。スタジオアシスタントとして、仕事がきつくても頑張る彼らに大きなコンプレックスをいただいていた。
あれから30年、あのスタジオにいた若者は今どうしているんだろう。カメラマンにはなれたのだろうか。おそらくほとんどがカメラマンにはなれたはずだ。そんな時代だったし。番組に出ていた同級生は皆カメラマンとして生きている。
カメラマンにはなれるけど、それでずっと生きていくのはとても難しい。若い人に「カメラマンになりたい」と相談されても「やめたほうがいいよ」と意地悪なことしか言わない。
それでもなってしまう人じゃないと続かないからだ。
もう一度20歳にもどれたら今度はどう生きるかよく夢想する。でも結果はいつも一緒。写真で生きてきた経験しかないからそれ以上のことは想像できないのだ(笑)