豚肉と目玉焼きのっけご飯。

フォトラウンジ楽しかった。

5分のプロジェクターによるプレゼンテーションというのは3年前に参加したフォトグラファーズサミットと同じだが、人数が少ない分意識がプレゼンに入り込むことができた。大イベントのサミットに比べ身近で、気軽に参加できるのがいい。

池谷友秀さんのプレゼンでは作品の他に撮影風景も上映され、それがネタバレになることなく、むしろバックグラウンドを知ることでより写真が面白く見えるようになった。

僕は池谷さんの写真を2枚、3000円展で買っている。以来ずっと注目している。今では大きなサイズのプリントが30万円もする作家になってしまった。来月西武デパートで個展があるそうで楽しみだ。

主催者の一人である水谷充さんやサイキカツミさんのプレゼンは、話と写真がよく噛み合っていたし、永田陽一さんのマーティン・パーインタビューのこぼれ話では思わず身が乗り出した。

僕はサンタフェのレポートというか、そこで感じた例の「ノーモアノスタルジー」の話をした。短い時間ではあったが直接話をできる機会をもらえたのはありがたい。

終わっあと参加者のひとりが「渡部さんの言っていたこととまったく同じことが現代アート入門書に書いてありましたよ」と教えてくれた。

そうなんだろうなと思う。おそらくちゃんと教育を受けている若い人にとっては「何をいまさら」な話なんだろうなというのは分かっていた。

その入門書の中には、やはりおじいさんが孫と一緒に現代美術館にやってくるというくだりがあるそうだ。現代美術であれば「今作られたもの」であるから作品を見る前提というものは「今生きている人」すべてに共通。だから歳を重ねた人も若い人もその作品を前に同等に話ができるのが現代美術の面白みだ、というのがあるそうだ。年齢性別美術経験の経験の有無を問わず、誰でも作品の前で一緒に色々な意見を交わすことができるのだ。

もしこれが近代美術なら、おじいさんは孫に「この作品はね」と見るための前提を教えることになり、孫は教えられたことを受け入れて見ることになる。その関係は対等とはいいがたい。

写真の中でも「美しさを疑え」と常に言われ続けれきた。それの意味が今までよく理解できないところがあった。美しいというのは個人的でいいのではないかと。

しかし美しいという感覚は前提を共有しているということから始まるのではないかと考えると、もしその前提がすでに崩れているとしたら、美しさの意味をもう一度考え直さなければ伝わらないと理解することができる。

なんだか大学生の青臭い芸術論みたいだが、これは教えられて身に付けたものではなく、実際の現場で体に入ってきたものだから消し去ることはできない。

もうこの話はこれで終わりにします。後は実際に会った時に意見を聞かせてください。そしてまた目からうろこが落ちたら書くことにします。