今月19日土曜日から3泊4日の泊まり込み合宿ワークショップを屋久島でやります。鹿児島地区に向けての案内だったので今まで告知していませんでしたが、まだ参加できるそうなのでお知らせします。朝から晩までずっと写真漬けです(笑)
今月19日土曜日から3泊4日の泊まり込み合宿ワークショップを屋久島でやります。鹿児島地区に向けての案内だったので今まで告知していませんでしたが、まだ参加できるそうなのでお知らせします。朝から晩までずっと写真漬けです(笑)
今までは「2Bに行ってくる」と江古田に行けば、ちょっとは集中して何かができたり、気分転換ができたのだが、引っ越してからは家にいることが多くなった。
積極的に外に出ないと、ずっとソファでウクレレを弾いてしまうことになる。昨日はふたつの展示に行って有楽町で映画を見た。
「ザ・スクエア」。現代アートミュージアムのキュレーターが主人公のフランス映画。カンヌ映画祭のグランプリだというので見たのだがちょっと苦手な部類だった。ずっと居心地が悪い感じで見ていた。
ただ現代アートが抱えている矛盾のようなものが垣間見えて、そこは面白いというか、そうだよね、というのはあった。
今日は海外作家の写真展を企画している友人がプリントの相談にやってきた。彼女は「近頃の海外の写真家ってテキストつけない人が増えてきて説明文がつけられなくて困る」と言っていた。
ちょっと前まではストーリーがあって、説明しやすいものがほとんどだったのに、最近はそっけないほどストーリーやテキストがないと言うのだ。
そこで「写真にストーリーは必要か?」という話になった。
ストーリーがあるとわかりやすい、共感が得られやすいというのは作家には明確な意図があるという前提があるわけだが、その前提が崩れているとするとどうなるだろうか。
実際に最近の作家のインタビューを見ていると「明確な意図はない」というのが増えている。ストーリーをつけることに対して積極的に離れようとしているかのようだ。
ちょっと前まで「作家は作品を発表する場合、伝えたいことが明確になっていなければならない」と言われてきたけれど「わからない」ことを認めようという動きになってきたように見える。
確かに伝えたいことが明確にあるならテキストだけでもいいわけだ。そのほうがむしろ誤解は少ないだろう。
写真の存在価値を「言葉の外にで出よう」と考えたとする。
そうなると言語では説明のつかないことになる。
写真はもう情報を伝えるものから「わからない」ものを扱うものへと変わってきてるのかもしれない。
帰り際彼女は「ちょっとすっきりした。ずっとモヤモヤしてたから」と言っていたが、僕はずっとモヤモヤしっぱなしなのだよ。
いい天気。風も気持ちよくてガレージに机を出してご飯を食べる。
この時期だけの楽しみで、そのために車をうっぱらってしまったほどだ。車よりご飯優先。まだカメラマンなんだけどね。
GW中ずっとウクレレを弾いていて、ときどきネコをかまって、合間に仕事して、またウクレレ弾いてをくり返してている。
「お前はキリギリスか!」としかられそうだ。
GW前半の目玉は、グラム1600円の牛肉ですき焼きをして、暖炉の前でウクレレを弾くことだった。
暖炉っていい。究極の欲しいものだ。違うな、暖炉が欲しいのじゃなくて、暖炉がある暮らしが欲しいってことだ。
しばらく前から、考えるときに「レイヤー」というキーワードを使っている。
ものごとを、より細かく分解して把握しようとする行為を解像度を上げると言い、より曖昧にしていくことを抽象度を上げると言う。
個人を認識するには解像度を上げていくと、ひとりひとりが別物であることが分かる。性別、国籍、年齢、名前、職業といった具合により細かい情報の集積が個人を特定するには便利だ。
これには必ず言語がともない論理化という手順を踏むことになる。西洋が追求してきた考えかただ。
反対に抽象度を上げると性別、国籍、年齢、名前、職業といった情報が徐々に曖昧になり、認識は人間となり、生物となり、地球の構成物となり、宇宙になって、最終的には存在となる。
ジョン・レノンの「イマジン」は抽象度を上げて考えましょうという歌だと思うし、ブッダの思想も同じだ。ということで東洋思想は抽象度を上げるということで説明できると思う。
解像度の問題は写真をやる全ての人にとっての大問題だ。僕はある時期まで解像度は高い方が「優れている」と思っていた。フィルム時代はフォーマットを大きくすることや、解像度の高いレンズを使うことが自分にとっての正義だった。35ミリより、中判、シノゴ、バイテンのほうがよくて、ツアイスやシュナイダーを好んでつかっていた。
最初に買った富士フィルムのデジタルカメの画素数は200万画素だった。次にキヤノンの600万画素一眼レフを買い、それが800万、1200万、2200万と買うたびに解像度は上がっていった。
その頃はより細かく描写することで、より本質に近づける気がしていたのだと思うし、商業的には必要な行為だった。
しかし、2000万画素を超えたあたりで急速に高画質への欲求は薄れてきた。4000万画素のカメラが発売されてもまったく興味がわかない。商業的にはもはや必要のない画素数の時代となったし、僕の思考も解像度を上げるほうから抽象度を上げるほうに向かってきた。
世の中でもチェキが流行り、「写ルンです」を使う人が増えてきた。デジタルカメラのエフェクトも解像度を下げる行為だ。ボケもそう。
ドイツのアンドレアス・グルスキーはレイヤーを平面的に並べるステッチング技術で解像度を大きく高める表現をしてきた。同世代のトーマス・ルフはレイヤーを積み重ねることで解像度を下げて世界を表現できないか考えているように思う。
2000年代はグルスキーが好きだったが、今はルフのほうががいい。ルフの解像度の捉え方が時代にあっているような気がしている。
もっとも高額で落札された写真作品はグルスキーの「ライン川2」だが、あの写真はそれまでの彼の作品よりも解像度は低く、抽象度が高いことからも世の中の動きが見えてくる気がする。
僕はものごとを考えるときに(写真を撮るときも同じ)どの解像度にするかということから始めている。解像度は高め過ぎると生きづらくなるし、抽象度はあげすぎるとわけがわからなくなる。どこの階層にするか、どの階層で生きていくか、ということに今の僕の興味がある。
一日中パワーポイントづくり。あらかじめ全体像を描いて進めるんじゃなくて、ページを重ねていくうちに全体が見えてくるっていう感じ。
適当なのだ。やってるうちに、収まってくる。
今回は絵画の高額ランキングから見る経済とアートのつながり。2015年から絵画市場はすごいことになっている。100億円越えはザラ。あるヘッジファンドマネージャーなんて、一回で500億円も買ってたりする。日本の前澤さんも負けちゃいない。世界のトップコレクターの仲間入りをしている。
なんでこんなに高額になったのかを考えている。単純要素だけでは説明がつかないから、いろいろ調べる面白さがある。
5月にモディリアーニ がオークションにかけられるそうで、落札価格が気になる。間違いなく200億円はいくに違いない。そいえば彼って不遇だったんだよなあ。
疲れて下に降りてきてソファに座ると、ウクレレを手にとってチャカチャカはじめる。あきずに毎日だ。というかソファにいるときはずっとウクレレにさわっている。
YouTubeもウクレレものばかり見ている。牧伸二のウクレレプレイがすごくて驚いた。どうやってウクレレを抱えているのかさっぱりわからない。左手だけで持ってるのに、ちゃんとコードチェンジできてる。謎だ。
実はウクレレを買ってしまった。借りているものでも十分なのだが、そこはね、ほれ、カメラと一緒で欲しくなるのよ。
御茶ノ水のウクレレ専門ショップで「素人ですが、いいやつ欲しいです。値段は5万円くらいで」
と、カメラを買うときに覚えた「知ったかぶりをしない、価格を先に決めて店員さんに相談する」を実行した。
そこのお店では、1万円から3万円 までの入門機と10万円以上の高級機が多くて5万円台はほとんどなかった。
つまり選べる本数が少ないってことで、それはそれで好都合だった。だって何にも知らないんだから、何を買っても変わらないのだ。
5万円っていうのも、このくらいのを買ったおけば満足するだろうってことで決めただけで意味はない。
一緒に行った妻が「これがいい」と言ったハワイコアとマンゴーの木を貼り合わせたボディのものを弾いてみた。なんかしっくり手に馴染んだので、それに決めた。
元値が10万円以上する特別限定モデルだが、イベントで試し弾きに使っていたので安くなっていた。ちょっと予算オーバーだったけど。日本のフェイマスというメーカーの上位モデルらしい。
ひさしぶりに生活にも仕事にも関係のない趣味のものを買ってしまった。毎日さわるものだから、いいやつにしてよかった、って弾くたびに思ってる、
雨が強い。窓の外がくらい。
今日は予定がなくて良かった。エプサイトに岩城文雄写真展を見に行くつもりだったが、明日の最終日になってしまいそうだ。
タイトルは「△」。◯でもXでもなく△。昨年9月の2Bグループ展でシリーズの一部を展示していて、見に来た人の間で話題になっていた写真だ。驚くほど評判になっていた。
今回、赤々舎から写真集が出た。それも見たい。エプサイト、明日の最終日は14時までです。
週末のHでやっていることはは自分でも驚くくらい2B時代と変わっている。根底は一緒なのだが、アプローチが違う。「iPhoneで撮ってもいいよ」なんて言うようになるとは思ってもいなかった。
H3回目は具象と抽象について
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1342213589213015&id=699693323465048&__tn__=%2As%2As-R
昨日は午前中にリハビリ。トレーナーの先生は、僕の体が左にねじれているのを、本当に簡単な方法で改善してしまう。ギューギューやバキバキは一切なし。自分で行う動作だけで、明らかに可動範囲が違ってくる。
やる前とやった後で両足で立ったときの感覚がまったく違う。面白い。これは楽しい。徐々にだが、歩いていても座っていても体がどうなっているのか意識するようになってきた。
夜はオークションハウスの内覧会に連れていってもらった。MOMAが所蔵写真を大量に放出する最後のロットで、7月にオンラインでオークションが行われるものを事前に顧客に見せるものだ。シャンパンを飲みながら見る。
スティーグリッツやスタイケン、ウォーカー・エバンス、アンセル・アダムス、ブレッソンなどの「名作」が並んでいて、そこに評価額が出ているのが面白い。市場での評価が数字で見える。
数十万円のものあって、買えないこともない。落札できれば「これ、MOMAが持ってたやつ」って言えるわけだ(笑)
あれ、雨がやんできた。エプサイト行けそうだな。
雨太郎はおくびょうだと聞かされていたが、確かに今のところおとなしい。
目をまん丸にしてゲージの隅っこからこちらを見ている。マンガみたいな表情だ。
雨をかばうようにいつも月子が前にいる。雨にさわろうとすると、やんわりペシっとこちらの手をたたき「さわるなら私を」と体を差し出してくる。
けなげな女にみえてきた。
昨晩ちょっとなれたかなと思ったが、今朝は「あなた誰?」って顔されて笑ってしまった。食欲はあるし、ふたりでいるからストレスも少ないだろう。僕にはまだ警戒モードだが、妻とはおもちゃで遊んでいる。
彼らがきて家のふんいきが変わった。「いる」ってすごいな。
ネコがやってきた。
保護ネコボランティアの団体からゆずりうけた。しかも2匹。8か月の女の子と10か月の男の子。
娘は半休を取り、夜には友人が見にくる。大さわぎだ。
迎えるにあたって、家に慣れるまで保護先と一緒の環境になるようにと、3段式の大型ゲージも用意した。
男の子は雨太郎、女の子は月子と名前をつけた。最初のネコは小太郎、次が風太郎だったから、飼う前から次は「雨」がいいということになっていた。
昨年の9月に風太郎が死んでしまって、もう新しいネコを飼うことはないと思っていたが、30年もネコがいる生活だったからやっぱりいないとさびしい。ひと月もしないうちにもう一度飼うことをきめた。
2Bの引っ越しもすみ、ワークショップも始まっていろいろなことが落ちついたので、娘が譲渡会に参加して決めてきた。
でも、まさか2匹一緒に決めてくるとはね。
雨と月がやってきて新しい生活が始まる。1年前の4月にこんなことになるとはまったく思ってもいなかった。
だからもう先のことを心配するのはやめにした。1年先のことすらわからないのだから、10年後のことなど思いなやんでもしょうがないなと。今思うのは早く彼らがここに慣れてくれることだけ。
月がゲージを出てそーっと近づいてきた。鼻をヒクヒクさせている。雨はその後ろでかたまっている。
57歳になった。朝鏡を見るとき疲れていたりすると「ああ、歳をとったなあ」と感じることがおおくなってきた。
ついに同年代の友人との話題に血圧と血糖値が加わってきた。
香港に行く前に左ヒザが痛くなった。疲れがたまるといつも左側がわるくなる。2週間くらいで良くなったのだが、なんか気になる。
ご近所さんに近くの整形外科を教えてもらったので、痛みはないが一度診てもらうことにした。レントゲンの結果、ヒザは骨がガサガサになっているとのことだった。
「加齢の影響ですね、痛みが強いならヒアルロン酸を注射しますが、なければリハビリで周囲の筋肉をつけてください」
ということで57歳にしてリハビリ開始。リハビリというとなんだから、専属トレーナーをつけると考えることにした。
初回、トレーナーに体をチェックしてもらうと、右目が悪いことをすぐに指摘された。体の左半分で生きている状態なんだと。だから左側にだけ負担がかかる。
右半身の筋肉の低下が著しくて「生活大変でしょう」と心配されるが、生まれつき右目がわるいもんだからそのバランスで生きてきたので気にしたことなかった。
筋肉のハリがないらしく「不摂生な生活で、砂糖をたくさん摂っているでしょ」と言われるが、むしろ逆で、ジムにも行ってますと言うと驚かれてしまった。
もともと体質的に筋肉がつかないタチで、学生時代にけっこう運動していたときも上半身はヒョロヒョロだった。最近は、うかつに痩せると筋肉まで減ってしまうので気をつけている。
色々問題ありの体のようで、しばらく通って筋肉をつけ体の左右のバランスが良くなるようにトレーニングすることになった。
こういう体の性質だから今の自分の思考が形作られているわけで、もし筋肉モリモリだったら違う思考になっていたんだろうな。
体のバランスが良くなれば、考えかたのバランスも良くなるはず。
今年のテーマは「身体(しんたい)」。リハビリを通して体のことを考えてみるというか、感じてみることにする。
ギャラリー冬青の今月の展示はちょっと変わっている。
北桂樹写真展「AA+A」
2018年4月6日(金) - 4月28日(土)
11:00~19:00
日曜・月曜・祝日 休廊
http://www.tosei-sha.jp/TOSEI-NEW-HP/html/EXHIBITIONS/j_exhibitions.html
今週水曜日に「作家の頭の中見せます―本棚が語る作家の素顔―北桂樹編」に参加してきた。
これはもともと北さんが考えたもので、ギャラリーで展示する当月の作家が自分の本棚から好きな本をセレクトしてギャラリーに運び、みんなに見てもらうことで作家の背景を探ろうというものだ。もう6回目となり、僕も1月におこなった恒例となっている企画だ。
今回はほとんどが初めて見る本で、貴重なものばかりだった。写真集は、いわゆる名作じゃなくて、コンセプト重視のものばかり。北さんは「本を買うときには結果としてのクオリティはそんなに重要じゃなくて、それが持つコンセプトに共感できるかどうか」と言っていた。それは自分の作品作りにも大きく反映されている。
活字だと写真史や、現代アート論がほとんど。僕自身この企画を実際やってみたからわかるが、持ってくる本のセレクトには本当になやむ。それだけに残る本というのは自分のコアな部分だとおもう。
この本棚の企画は作家を知る大きな手がかりになる。
さて写真展タイトルの「AA+A」のAAとは単3乾電池のことだ。AAは世界中の90パーセントが使っている国際規格。これほど浸透している規格はめずらしい。誰もがその形から使用用途が理解できる。
そのパッケージデザインは、国によってメーカーが変われば当然変わってくる。世界中でAAは作られていて、お国柄のようなものがあるのかもしれない。
そのデザインを北さんが自分で作ったプログラムにより数カ国のAAデザインをオートマチックに変化させてひとつにまとめている。
このオートマチックというのが肝だ。トーマス・ルフの作品が好きだったり現代アートをよく見ている人なら理解できるだろうが、写真だけやっていると「こんなの写真じゃない」と言ってしまうかもしれない。
そういう人には「では写真ってなんですか?」と聞いてみたくなるけどね。
今回の北さんの写真は今までの冬青の展示とは大きく異なる。単3乾電池を被写体にしているが、出来上がった結果は単3乾電池の実態(イメージ)ではなくて、概念(コンセプト)。
アンディ・ウォーホルやトーマス・ルフを下敷きに構成されている。
「踏む」という行為がすべての根底にある。何を下敷きにするか、そこにどのように新しさを積み上げられるか。
もしこの日記を読んでいる人で「近頃の写真はちっともわからない」と感じている人がいれば、冬青に行って北さんからAAの制作過程を聞くといいとおもう。ギャラリーに問い合わせれば在廊日を教えてくれる。
話を聞くことでそのコンセプトが理解できて、面白いと感じたら写真集を買ってプリントを買うと、より理解できるはず。
世界はどのようなマーケットになっていて、若い作家はどのようなアプローチをするべきかを踏んでいる次世代の作家だ。
ここ数年彼の活動を間近に見ているだけに、今回の本棚イベントは面白かった。
家のレイアウトがワークショップ用になってしまった。
人が集まるからとエアコンも2機新しくしたし、A3エコタンクプリンターも買ってしまった。引っ越しもあったし、ここ数ヶ月の出費はえらいこっちゃ。
しかも来週にはネコが2匹もくる。つまりネコ付きワークショップとなるわけだよ。すごいコンテンツだ(笑)
それにしてもこの家は人があつまるのにちょうどよくできている。土曜日と日曜日の午前中は写真のワークショップだけど、夜は違うことに使おうとしている。
第一弾はウクレレ。5人くらい集まってウクレレ弾いてご飯を一緒に食べる。その道を極めたりしない。
友人が、そういうのを「お稽古」って言うのよと教えてくれた。仕事だけじゃなくて、家庭だけじゃなくて、集まってなにかをする。こういうのをコミニュティって言うんだろうな。
10年以上前にハービー山口さんから「僕はひとつの外国語と、ひとつの楽器ができたことで、人生が豊かになった」と聞かされてずっと心に残っていた。
ハービーさんの名前の由来はフルート奏者のハービーマンからきているのは有名な話で、ハービーさん自身もフルートを吹いている。それに70年代はロンドンに住んでいたから英語は堪能。
それがあったから英語を始めたというのも大きい。そして今年ようやく楽器にたどりついた。
英語もウクレレも趣味。まあ写真も同じようなもんだけどね。
江古田から阿佐ヶ谷に場所を移して初めてのワークショップ。
実を言うとまだ手探り状態で、はっきりしたカリキュラムはない。初回は写真雑誌『IMA』の最新号と本年度の木村伊兵衛賞のふたりを引き合いに現在の写真の状況を説明していきながら、参加者が持参した写真を見ていった。
このへんは2Bとあまり変わりはない。ひとつ大きな違いと言えば宿題があること。iPhoneでも構わないから次回まで3枚写真を撮ってくる。
そのお題は「右」
なんでもいいから右だと思うものを撮ってきてもらう。右って左の存在なしに説明するのは難しい。男を説明するのに女を抜きに説明できないのと同じだ。
当然撮った写真に正解などない。どう撮るかというより、どう思考するかというゲームだ。これは京都の荻野さんから教えてもらった。
対話型美術鑑賞というのがあって、作家の意図や背景を抜きにして作品から感じるものをグループで話あうものに一度参加したことがある。
「作家の意図はこうでした」という正解を探るものではなくて、自由に発想して発言しあう。とはいえ、自由にというのが意外と難しい。へんなこと言ったら恥ずかしいという気持ちもある。
でも正解はないのだ。とっぴであればあるほど、対話はもりあがるし、他人の意見の面白さを受け入れることができる。MOMAがすすめているプログラムで、最近は学校や会社内でも行われているんだそうだ。
条件さえよければiPhoneと最新ミラーレス機の違いはほぼない。誰が撮っても写真は撮れる時代だ。テクニックはAI化がすすめばすぐに陳腐化する。そのときに必要なのはむしろ撮ることよりも、見る力のような気がしている。
100年前に「20世紀の文盲は写真を読めないことだ」と言ったのは誰だったっけ。そんな時代がきてるのかもね。
新しいワークショップでは新しいことをやってみようと思っている。